LIFE IN MIRACLES~奇跡でごはん食べてます~

融通無碍・自由自在・みんなひとつの神さまライフ

知的で痴的な昭和の「おっちゃん」らのこと

母方の伯父と大叔父はどちらも大酒飲みで遊び好きな人だった。

伯父は母の長兄。大叔父は母の父の弟。

どちらも、若いころはかなり博学で哲学好きで、きれいな文字を書く人だった。

二人は仲良しの遊び仲間で、伯父が横浜で私の父の店を手伝っていた時期を除いて、よく酒やギャンブルに連れ立って出かけていた。

 

小学校のころから家の書棚にあった「韓非子」の本は、大叔父のものだった。

ついでに言うと、同じ書棚に「ヨハネ福音書」があった。

どちらも旧漢字と旧かなづかいで書かれたものだ。

おかげで私は、小6のころ「初めに言葉あり」で始まる冒頭の一節をそらで覚えたが、あれは誰のものだったんだろう?父の死後しばらく母と同居していた伯父のものだったろうか?

戦争が、二人の人生を台無しにした。と、母は言った。台無しな人生などひとつもない。可哀想な人は一人も居ない。と信じているが、この二人についてそれを口に出すと、なぜか戦争を容認することにつながる氣がして、母に言い返すことはなかった。

 

伯父は今の私と同じくらいの年齢で自死を選んだ。

大阪の箕面という土地の、川の浅瀬で水に顔を突っ伏した状態で倒れていたそうだ。

遺体のそばにビールの空き缶と睡眠薬がたくさんこぼれていたらしい。

それだけで警察が自殺と断定するのはおかしいと、伯父の死後も、母と祖母はずいぶん長いあいだ言い合っていた。晩婚だった伯父の細君とその身内を疑っていた。当時、高校生だった私はその人たちの名前も顔も憶えていない。いずれ真相を究明すると、母子して言っていたが、その祖母も伯父の5年後に亡くなり、母はいまは一人では歩けない介護老人になった。事件から41年が過ぎている。

あの時、母と祖母は、誰かを憎む振りをしていないと、自分の精神を平常に保てなかったのかもしれない。

あきらかに、内心では二人ともが、自分で自分を責めていた。

 

伯父は海軍の兵役から復員して、私たち姉弟の幼いころは、横浜の父のガラス屋で職人として働いていた。小さいころ、父母に負けないくらいに可愛がってもらった記憶がある。

配達の折、スクーターの後部座席に小さな私を乗せて走ってくれたりした。

ちょっと怖くて、かなり楽しい経験だった。

 

大阪万博にも、この伯父が連れて行ってくれた。

 

箕面の警察の霊安室のベッドに横たえられた伯父の体のあちこちから、祖母と母が部屋に入ったとたん鮮血が溢れ出したそうだ。待っていたかのようだ。と母は言っていた。

その後の祖母の悲嘆は、うまく言葉にできない。取り乱す姿は見たことがなかったが、押し殺した悲痛が痩せた肋に滲み出ていた。

ただ、半年が過ぎる頃、「けさも夜明けに、あの子のオートバイの音が聞こえたんや。そうするとな、この辺がほっこりするねんわ」と、その肋のあたりを撫でて静かに笑っていた。

 

大叔父は、80歳を過ぎての老衰で(当時では)大往生だった。死の床を何度か見舞って、ある日、半日ばかり静かに見守っていたことがある。朦朧と濁った眼差しで、天井の一点を見据えていた。

別な日、亡くなる直前にたまたま見舞った母に、かなりセクハラっぽいことを言ってから、「これが最後(最期?)や。」と呟いて、わずかに笑いながら亡くなったそうだ。

子供のころの私には、この大叔父は、競馬と酒と猥談の印象しかないが、戦前に兄(つまり母の父。この祖父は私が生まれる前に戦争中に胃がんで亡くなった)と印刷屋をしていたころは、ずいぶん羽振りが好かったらしい。

祖父も大叔父も伯父も、戦争で人生の歯車が大きく狂ったようだ。

 

祖父のことは伝え聞くばかりでよくわからなかったが、小さいころから目の当たりにしていた大叔父と伯父の生き方を私は好きになれなかった。

なんというか、どうも「現状維持」なのだ。

私の父も生まれつき体の弱い人で、39歳の若さで脳卒中で急死したから、前向きで進化傾向とはとても言えないが、それでも子煩悩で家族にとことん尽くして亡くなった。麻雀が唯一の道楽だった。

 

伯父と大叔父は、何度も言うが、遊びと酒に飲まれるタイプだった。酔って伯父が暴れることもあった。大叔父は宥める役だった。

 

思春期に、「虚無」や「空虚」という言葉になじんで、自分もその「氣分」を愛していた節があるものの、伯父と大叔父の内面に食い込んだ「虚無」の深さや苦さに、当時の私は氣づくことができなかった。だらしない、夢のない、うだつのあがらない、ネズミ色や焦茶色の服の似合う昭和の男たち。そんな印象だった。

 

このところの自分の暮らしぶりを振り返って、どうも彼等の生き方が氣になってしかたがないのだ。

彼らはただの人生の敗残者であったろうか?

高度成長時代の流れに乗り損ねて失速したかに見えた二人の人生が、私には、資本主義社会の過剰な外圧を、どこ吹く風でスルーしつづけた信念の生きざまに映り始めた。自死した伯父はまだ少し検証の余地はあるとして、大叔父については、そう言い切ってよいのではないか。彼には罪悪感も反省も劣等感も、かけらも見当たらなかった。細君(大叔母)の持ち物である不動産の家賃収入に依存しきっていた。大叔母も夫を窘め、呆れ、ときたま怒鳴りちらしながらも、根底では彼をゆるしていたと思う。つまり彼は偉丈夫の嫁からとことん愛されていた。

 

伯父にも、この大叔母のような細君が見つかればよかったのだが。初老と呼べる年齢になって、タクシー運転手の職を選んだ彼は、不運にもタクシー強盗に遭い、命にかかわる経験をした。そんなことも自死の一因ではなかったかと推測される。

 

二人の「おっちゃん」を思い出しながら、自分は父と同じ39歳で直系遺伝の動脈硬化体質からクモ膜下出血で倒れたけれども、その後いまの職業を選んだときに、きれいに酒をやめられてよかったと思う。父は生まれつきの高血圧と腎臓病で酒もたばこも喫めない人だったが。

 

世間の一般的なレールからは逸れた独特なコースの上で、彼等は彼等なりの向上心というか生きがいをもって生きていたんだな。と、伯父の晩年に近い年齢になって、実感されてきた。

それでも私は、彼らほど徹底して遊興に耽ることはできないだろうし、一般的な家庭を持つこともないだろう。それでいいと、いまは思っている。

ただ、大叔父の人を食ったユーモアのセンスを、伯父の美しい文字と透徹した文才を、父のピアノ教師としての音楽の才能を、ぼちぼち受け取って、出していきたいなとも思う。

 

二人のおっちゃんの人生と、自分が遅咲きの才能をブレイクさせること。

この二つは、セットでながめ続けようと思っている。